ある表現が名誉棄損とならないためには、公共性・公益性・真実性が必要となります。
真実性に関しては、真実と認めるに足りる相当な理由があればよいと考えられています。

この相当性に関しては、表現時(行為時)において、真実であると思ったことについて、確実な資料・根拠に照らして相当の理由があると認められるときでないと認められません。

相当性の理論は、名誉棄損にならないために、「真実でなければならない」とするのは、憲法が保障する表現の自由との衝突が生じるおそれがあるため、名誉棄損と表現の自由の調和のために導き出された考え方です。

こんなまどろっこしいことしなくても良いのではと思うのが市民感覚だと思います。
謝った情報を流してしまったのであれば、「訂正して謝罪するべき」となるでしょう(処罰があるのであれば処罰されるべき)。
正しい情報を流したのであれば、「何も謝る必要はない」となるでしょう(処罰する必要はない)。

ただ、法律感覚で行くとそうはいかないということが名誉棄損の例で少しはわかってもらえたのではないでしょうか。
すなわち、誤った情報を流してしまったとしても、一定の理由がある場合には、「訂正も謝る必要もない」ということになります。
もちろん処罰されることもありません。
道義的に誤った情報を流してしまっているため、「訂正」を行っているだけです。

例えば、新聞記事で誤った報道をしてしまった場合、「訂正いたします」という場合と「訂正し、謝罪いたします」という場合があるのはこのためです。
謝罪していたとしてもそれが違法であったかどうかは別です。違法なことをしたので謝っている場合と市民感覚(道義的に)で謝っている場合があります。
皆さん一度、訂正記事があった場合、注意深く見てみてください。

法治国家である場合、市民感覚と法律感覚は区別して考えなくてはならないということになります。
法律で禁止されていない・法律に違反した行為でない場合、それが一般国民から見て「おかしいだろ」と思うことであっても、違法でない限り「謝る必要はない」ということになります。
おかしいだろ、謝罪するべきだ、処罰するべきだというのであれば、法律を作る・改正をしなくてはなりません。

市民感覚で物事を進めていくのか、法律感覚で物事を進めていくのかによって、その物事の進め方・終わり方が変わるということです。

特に権利と権利がぶつかってしまう場合には、「謝罪しろ」「法律上問題ないはずだ」などの応酬になりがちです。

ただ、日本人は「和」を重視しますので、時に法律より道義が勝ることが多いですね。
謝罪をして一件落着という場合が多い印象です。



大野