三英傑、才知に優れた3人のこと。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が戦国三英傑と言われています。
ともに戦国時代に天下統一へと導いた人物で、三人とも愛知県出身とされています。
この三人の性格を表現するものとして、ホトトギスがあります。
鳴かぬなら殺してしまえホトトギス
鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス
大変有名な話です。
今回は、別の視点から三英傑を見てみたいと思います。
ガラッと話は変わりますが、「財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上とする」というものがあります。
後藤新平氏の名言であり、プロ野球で活躍された野村克也氏が大切にした考え方です。
財産を築いたり、仕事で業績を上げたりすること以上に、人を育てることは難しい。
財産を残しても、仕事を残しても、結局は人が育っていなければ、財産はなくなり、仕事もなくなる。
しかし、事業を残すためには財産が必要で、人を残すためには事業が成功していることが大切とも考えられています。
三英傑はどうでしょう。
織田信長は、弱小勢力から、あらゆる戦いに勝ち勢力を大きくし、天下統一まであと一歩のところで明智光秀に討たれてしまいました。
勢力を大きくした点で財産を残し、仕事も残したといえるでしょう。
豊臣秀吉や柴田勝家、前田利家、丹羽長秀など優秀な武将も多くおり、子供もたくさんいましたから、人の残したともいえますが、後継者である織田信忠は本能寺の変でともに討たれてしまっています。
子供はほかにいましたが、清須会議によって、幼い子供が後継者となり、権力構造はガラッと変わり、豊臣政権へ移って行ってしまいました。
天下統一事業という点だけ見れば、人を残していますが、織田家繁栄を加味すると、人を残すことが成功したとは言えないかもしれません。
豊臣秀吉は、織田信長の後を継ぎ、天下統一を成し遂げました。
大阪城を建築し、豊臣氏の繁栄を内外に示しました。多くの財宝を持っていたといわれており、財を残し、天下統一、関白という役職も得ましたから、財を残し、仕事を残したといえるでしょう。
ただ、子供に恵まれず、豊臣秀頼しか後継者はいませんでした。多くの養子をもらったり、部下を育てたりしましたが、最終的な豊臣家の行く末はご存じのとおりです。
人心掌握にたけたといわれる豊臣秀吉ですが、関白を秀頼に継がすために秀次を切腹させたりと、人を残すことに失敗した感は否めません。
最後に徳川家康、家康は関ヶ原の戦いに勝利し、一気に権力を掌握し、大阪の陣にも勝利したことで権力基盤を盤石にしました。
征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開きましたから、財も仕事も残したといえるでしょう。
そして、徳川家康には多くの優秀な部下にも恵まれ、子宝にも恵まれました。
政略結婚なども積極的に行い、部下とのつながりを強化していきました。
また、徳川本家と分家の役割をはっきりさせ、本家にもしものことがあったときについても考えました。
徳川御三家ですね。
7代将軍が早くなくなってしまったことから、宗家が断絶してしまい、歴史的にみると争いが発生し、幕府の力が弱くなっていくのが常でしたが、御三家から養子を迎えることで、江戸幕府は続いていきました。
260年も続く礎は家康によって、残されていたといえます。
優秀な部下の支えもあっててですが、徳川家康は人を残すこともできていたといえるのではないでしょうか。
三英傑を見ても、いかに人を残すことが難しいのかということがわかるのではないでしょうか。
一代で何かを生み出すことは可能ですが、それを継続させていくことは難しい。
継続させていくためには、人が必要で、続かなかった場合にはうまく人を残せなかったということです。
一代で大きな企業を築いたが、二代目でうまくいかなかった。
一代で大きな企業を築き、いろいろあったが、今も残っている企業は人を育てることに成功した。
生き残るかどうかは結局は人なのでしょう。
大野