中国の魯の国で生まれた儒教の創始者、孔子の言葉です。

三十にして立つ。

四十にして惑わず。

五十にして天命を知る。

三十にして立つとは、自分の精神の立場を確立したことです。

これは諸説ありますが、私の解釈では、「キャラクターの方向性がある程度確立された状態」を言います。

10代、20代と過ごしてきて、自分にはどういう服が似合うのか、似合わないのか、友達といたら楽しいのか、一人でもいいのか、接客が好きなのか、黙々と何かをやるのが好きなのか、人の目が気になるのか、我が道を行くのか、明るくふるまって疲れないのか、そうでもないのか。

色々試した結果、しっくりくる自分らしさの方向性が定まった状態です。

この段階まで来ると、もうしなくてもいいこと、したくないことの種類もある程度わかってきます。同時にできないこととできることの区別もつくようになります。仕事をするにしても人間関係を作るにしてもしんどくなくなっていきます。

四十にして惑わずとは、悟りが開け、人生に対しての疑いを抱かなくなったことを言います。これもよくわからないので自分なりに解釈しますと、「キャラクターの確率期」をいいます。完全に方向性が定まって、よしこれでいくぞと自分に気合を入れることができます。もう誰に何を言われてもどうも思いません。

ブレない心というのはまさにこの状態でしょう。ただこの状態を作るには三十代で定まったキャラクターの方向性で自分の中で納得のいく形、ある意味での実績を積んで、自信を持っておくことです。知識を三十代で蓄えたなら四十代ではそれを知性に昇華させる段階とも言えます。

知識があることと賢いということはイコールではないと気が付くのもこの時期でしょう。

人に対して「こんなことも知らないの?」という精神で四十代を迎えてしまった方は気を付けましょう。

そして五十にして天命を知る。これは自分の生涯における使命を見極めたこ状態です。これも解釈しますと「自分というキャラクターでできることをやっていく10年」という状態でしょう。

この段階であれば、人に教えたり、次世代につなぐということもできますし、何より自分と社会との折り合いが付くポイントが分かりますから、何をすべきか、すべきでないか、家族を大切にし、仕事以外でも自分の意義を見出せることでしょう。人生というボードであれば後は進むのみといった状態です。

自分のことだけを考えている五十代の方がいらっしゃったら社会に対する貢献とは何か、今一度考えてみてください。

「天命とは、急に降ってくるものでなく50年かけて得た人生の経過そのものを言う」

ぜひそんな五十代になりたいものです。

西本