選挙と「ニセ情報に注意」報道──国民は本当に舐められているのか
選挙戦が始まると、決まって目にするニュースがある。
「ニセ情報に注意」「フェイクニュースに惑わされないでください」という注意喚起だ。
もちろん、選挙と虚偽情報の問題は世界的にも深刻だ。
SNSを通じて拡散される誤情報、意図的なデマ、加工された画像や動画。
こうした情報が投票行動に影響を与えるリスクは、現実に存在する。
ただ、その一方で、こんな違和感を覚える人も少なくないのではないだろうか。
「国民はそこまで簡単に騙される存在なのか」
「明らかな嘘まで見抜けないと思われているのではないか」
この違和感は、決して的外れではない。
「見抜けない国民」という前提に立つメディア
近年の注意喚起報道には、ある共通した前提が透けて見える。
それは、
「国民は情報を自分で判断できない存在である」
という暗黙の想定だ。
たとえば、
- 明らかに文体がおかしい文章
- 事実関係が初歩的に矛盾している主張
- 出典も根拠も示されない断定的な煽り
こうした「粗雑な嘘」まで、
「騙されないように注意しましょう」と一括りにされる。
しかし、実際の多くの有権者は、
- 複数のメディアを比較する
- 過去の発言や経歴と照らし合わせる
- 直感的に「怪しい」と感じる
といった、最低限の判断能力を持っている。
「何でも信じてしまう国民像」そのものが、やや現実離れしているのではないだろうか。
本当に難しくなっているのは「巧妙な偽情報」
もちろん、問題が存在しないわけではない。
数年前と比べて、判断が格段に難しくなっている分野がある。
それが、AIによる生成画像・生成動画・音声だ。
- 本人そっくりの顔で語る偽動画
- 実在しそうな報道写真
- 政治家の「偽の発言音声」
こうしたものは、
専門知識がなければ見抜けないレベルに達しつつある。
重要なのはここだ。
危険なのは「明らかな嘘」ではなく、
**「本物とほぼ区別がつかない情報」**である。
ところが、メディアの注意喚起は、
この難しい領域と、誰でも見抜けるレベルの嘘を、
一緒くたにしてしまっていることが多い。
「啓発」なのか「管理」なのか
もう一つ考えるべき点は、
こうした注意喚起が、どこまで「啓発」で、どこから「管理」なのか、という問題だ。
本来、民主主義において重要なのは、
- 情報を与えること
- 判断基準を示すこと
- 自律的判断を尊重すること
であって、
「正しい情報はこれ、間違った情報はこれ」と
線引きを一方的に決めることではない。
しかし最近の報道には、
- 「これはニセ情報です」
- 「これは信頼できる情報です」
というラベリングに、
やや強い誘導性を感じる場面もある。
この姿勢が続くと、
国民は「考える主体」ではなく、
「正解を教えられる対象」になってしまう。
それこそが、
民主主義にとって本当に危うい状態ではないだろうか。
「国民を舐めている」のではなく、「信頼していない」
では、こうしたメディアの姿勢は、
「国民を舐めている」のか。
表現としては少し強いが、
少なくとも、
「国民の判断力を十分に信頼していない」
という態度は、はっきりと感じられるのではないか?
しかし、現実の有権者は、
- 全てを鵜呑みにするわけでもなく
- 全てを疑っているわけでもなく
- それなりに取捨選択しながら情報を受け取っている
極めて現実的な存在だ。
メディアが向き合うべき相手は、
「騙されやすい国民」ではなく、
**「判断しようとしている国民」**であるはずだ。
おわりに──必要なのは「注意喚起」ではなく「判断材料」
選挙において本当に必要なのは、
- 「ニセ情報に注意しましょう」という抽象的な呼びかけではなく
- どういう情報が、なぜ怪しいのか
- どう判断すればよいのか
という、具体的な判断材料の提示である。
国民を「守る対象」として扱うのではなく、
「判断する主体」として尊重すること。
それこそが、
フェイクニュース時代における、
本来のメディアの役割ではないだろうか。
大野