最高裁判所裁判官の国民審査とは何か―「×を付けるだけ」の制度は、本当に無意味なのか―
衆議院選挙の投票所で、投票用紙とは別に渡される一枚の紙。
そこには、見慣れない裁判官の名前がずらりと並んでいます。
それが最高裁判所裁判官の国民審査です。
「正直よく分からない」
「誰なのか知らないから、何も書かずに出している」
「形だけの制度では?」
こう感じている人は少なくありません。
しかし、この制度は日本国憲法に明記された、**数少ない“国民が司法に直接関与できる仕組み”**でもあります。
国民審査の根拠と位置づけ
最高裁判所裁判官の国民審査は、日本国憲法第79条に規定されています。
ポイントは次のとおりです。
- 最高裁判所裁判官は、内閣が任命する
- 任命後、最初の衆議院総選挙の際に国民審査を受ける
- その後は、10年ごとに再度国民審査を受ける
- 国民の多数が「不適任」と判断した場合、その裁判官は罷免される
つまり、
👉 内閣が任命するが、最終的なチェックは国民が行う
という二段構えの制度です。
これは「司法の独立」と「民主的正統性」を両立させるための仕組みだといえます。
国民審査のやり方はとてもシンプル
投票方法は、驚くほど簡単です。
- 不適任だと思う裁判官の名前の横に「×」を書く
- 何も書かなければ「信任」とみなされる
✔ 「〇」を書く必要はない
✔ 全員に×を書くことも可能
✔ 一人だけ×を書くことも可能
逆に言えば、×を書かなければ、その裁判官は自動的に信任されます。
なぜ「形骸化している」と言われるのか
国民審査が形だけの制度だと言われがちな理由は、主に次の3点です。
① 罷免された裁判官が一人もいない
制度開始以来、国民審査で罷免された最高裁判官はゼロです。
そのため、
「どうせ結果は変わらない」
という印象を持たれやすくなっています。
② 裁判官の情報が圧倒的に少ない
多くの有権者は、
- どんな裁判に関わったのか
- どんな判断をしてきたのか
- どんな思想・法解釈の傾向があるのか
を知る機会がほとんどありません。
結果として、
「知らない人に×は付けられない」
→ 白紙提出
という流れになりがちです。
③ 「×を書く」ことへの心理的ハードル
日本では特に、
- 名前に×を書くのは失礼では?
- 専門家を素人が評価していいのか?
と感じる人が多く、慎重になりやすい傾向があります。
それでも国民審査に意味はあるのか
結論から言えば、意味はあります。
ただしそれは、「今すぐ裁判官をクビにする制度」という意味ではありません。
意味① 裁判官に対する“無言の圧力”
最高裁判官は、自らの判断が
- 将来、国民の目にさらされる
- 評価の対象になる
ということを常に意識しています。
これは、権力の暴走を防ぐ心理的ブレーキとして機能します。
意味② 国民が司法を考えるきっかけ
国民審査は、
- 「最高裁って何をしている?」
- 「この判決は妥当だったのか?」
と考える入口になります。
実際、選挙のたびに裁判官の判断や過去の判例が話題になること自体が、制度の効果だと言えます。
意味③ 「司法は国民のもの」という宣言
立法(国会)や行政(内閣)だけでなく、
司法もまた国民主権の枠内にある。
それを制度として可視化している点に、国民審査の本質があります。
法制度の視点から見る国民審査
行政手続や制度設計の観点から見ると、国民審査は非常に日本的です。
- 強すぎる直接民主制にはしない
- しかし完全なエリート任せにもならない
- 「最終的には国民が見ている」という形だけは残す
これは、
制度としての安定性を重視した結果とも言えます。
派手さはありませんが、
「何も起こらないこと」自体が、制度が機能している証拠
と評価する見方もできます。
おわりに
―「×を書かない自由」も、意思表示である―
国民審査で×を書くかどうかは、完全に自由です。
ただし、
- 何も知らずに白紙で出す
- 知ったうえで、あえて×を書かない
この2つは、意味がまったく違います。
最高裁判所裁判官の国民審査は、
「参加しない自由」も含めて、国民に委ねられた制度です。
せめて一度、
「この制度は何のためにあるのか」
を考えてから投票所を後にする。
それだけでも、国民審査は十分に役割を果たしているのかもしれません。
大野