日本の政治体制の変遷 ― 内閣制が誕生するまで

現代日本は「議院内閣制」を採用しています。しかし、日本が最初から内閣制を持っていたわけではありません。むしろ、日本の歴史をたどると、さまざまな政治体制が試みられ、その中で内閣制がようやく誕生したのです。今回は、日本の政治体制の大きな転換点を追いながら、「内閣制以前はどうだったのか」を整理してみましょう。

目次

1. 古代律令制 ― 太政官制の起源

日本で最初に体系的な政治体制が整ったのは、7世紀の 律令制 でした。
701年の「大宝律令」により、中国の唐をモデルにした中央集権的な制度が確立されます。

その中心にあったのが 太政官制 です。

  • 最高機関は「太政官」
  • 長官は「太政大臣」
  • 補佐に「左大臣」「右大臣」
  • その下に「中納言」「参議」など

この太政官が、立法・行政・軍事を総合的に担う仕組みでした。

2. 中世 ― 武家政権と朝廷の二重体制

平安時代後期からは、律令制が機能不全となり、代わって武士が台頭します。

  • 1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開く
  • 幕府(武士の政権)と朝廷(太政官制を名目上維持)の二重構造に

形式的には太政官制は存続していましたが、実質的な権力は幕府が握りました。
鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と続き、約700年にわたり日本は「武家政権」が主導したのです。

3. 近世 ― 江戸幕府と幕藩体制

1603年、徳川家康が江戸幕府を開き、幕藩体制 が成立します。
ここでは、幕府が全国の支配権を持ちながら、大名たちが藩を治めるという分権的な仕組みが取られました。

一方で朝廷と太政官制は京都に存続していましたが、政治的実権は完全に幕府に移り、太政官は儀礼的な存在に留まりました。

4. 明治維新 ― 太政官制の復活

1868年の明治維新で幕府が倒れると、新政府は古代律令制をモデルに国家を再編します。
そこで復活したのが 太政官制 でした。

  • 太政大臣を頂点に、左大臣・右大臣・参議などを置く
  • 行政を「三院(議政官・行政官・神祇官)」に分割

しかし、この仕組みは複雑で運営が難しく、近代国家建設にそぐわないものでした。欧米諸国と対等に渡り合うためには、より効率的で近代的な制度が必要とされたのです。

5. 1885年 ― 内閣制度の成立

明治政府はヨーロッパの制度を調査し、最終的にプロイセン(ドイツ帝国)の制度を参考に 内閣制度 を導入します。

  • 1885年(明治18年)、太政官制を廃止
  • 内閣制度を新設
  • 初代内閣総理大臣は 伊藤博文

このときの内閣は、まだ「天皇に対して責任を負う」ものであり、議会に対しては独立していました。つまり、現在のような「議院内閣制」ではなく、「天皇を補佐する内閣」でした。

まとめ ― 内閣制以前の流れ

  1. 古代(律令制):太政官制(大宝律令以来の中央集権制度)
  2. 中世(武士の時代):幕府と朝廷の二重体制、太政官は名目化
  3. 近世(江戸時代):幕藩体制、朝廷は儀礼的存在
  4. 明治維新後:太政官制を復活させるが不適合
  5. 1885年:近代的な「内閣制度」を導入

つまり、内閣制は1885年に初めて成立 し、それ以前は 太政官制や幕府体制 が日本の政治を支えてきたのです。

👉 この流れを押さえると、「なぜ内閣制が必要だったのか?」が見えてきます。
それは、国際社会に通用する近代国家を作るために、非効率な太政官制をやめ、内閣制度を導入せざるを得なかった、という歴史的背景があったからです。

大野

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