完璧という言葉があります。
辞書で調べてみると、欠点がなく足りないところがないこと、完全なこと、などという意味だそうです。

私たちは人間です。
完璧を目指したところでどこか欠落する可能性は大いにあります。
過ちを犯してしまった、重要な書類に不備があった、約束を破ってしまった、あるいは忘れてしまっていた。
大いにあるでしょう。

その間違いを少しでもなくすために、メモを取ったり、スケジュール管理をしたり、勉強をしたりして、自己を成長させようとします。
それでも、道を外してしまったり、間違ったりしてしまいます。

これは誰にでも起こりえることです。
ただ、重要なのはそのあとの反省です。
自分の間違いに気づいたのですから、素直に非を認め、次からの行動に反映させればよいのです。
メモを取り忘れたのであれば、今後はとるようにする。
忘れがちなのであればスケジュールを管理するようにする。
罪を犯したのであれば、刑期を全うする。

やってしまったことは変えられません。
反省し、自分を改めたにもかかわらず、離れていく人がいるならばそれはその程度の人間関係であったのです。
新たな自分で新しい人間関係を築けばよいのです。

間違いをしてしまった人は、自分でしてしまったことに対する非を素直に認める。
白い目で見られることもあるでしょうが、一定程度は受け入れる。

周りの人は、反省しているのであればそれについてはそれ以上怒鳴ったりしない。
ただ、周りの人にはされた行動に対しての感情がありますので、完全に許すことはできないでしょうが、反省している以上はあからさまに非難しないように心がけるだけで違うと思います。

例えば、少年法は社会復帰のために少年の名前などは公表されないことになっています。
これは間違いを犯した少年が非を認め、周りの人は少年が反省しているのであれば、社会復帰のために名前までは公表しなくてもよい、という前提がある法律だと思います。

近年は、少年法は改正するべき・廃止すべきという声が大きくなっています。
これは、反省が見て取れないからでしょう。
「俺は少年だから、法に守られている」と少年たち全員が思っていると、思われているということです。

完璧な人間などなかなかいないと思います。
完璧といわれる人であっても、どこか欠落している部分があります。
いいようにいうと、天然ですね。
「お前って本当に天然だよな」と思えている社会、間違いに寛容な社会でありたいですね。

大野